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田代売薬の起こり(3)  No.332
 「田代売薬の起こり(1)」で、佐賀県の田代になぜか江戸時代、にわかに売薬業が起こったことを書いた。当時の売薬業の仕組みや起こりを知るために、「田代売薬の起こり(2)」では、顧客台帳「懸場帳」についてやや詳しく紹介した。今回は、その続きを書く。

 田代の民家に伝わる「懸場帳」を丹念に収集し、研究している中冨記念くすり博物館。その書庫に保管されている貴重な帳票を見てみると、いかに田代の売薬商人たちの商圏が広かったか了解できる。「薩摩」「長崎」など、九州一円の地名が入った懸場帳が散見できるからだ。

 ここからも、富山、大和、近江に比肩され得る規模で、製薬・売薬業がこの地に起こり、根付いていたことが分かる。

 また、懸場帳の年代をさかのぼれば、田代売薬がいつごろ起こったのかも、ある程度は類推できる。その他、公文書の記録などを渉猟した結果、「おそらく江戸時代中期には起こったろう」と、中冨記念くすり博物館の山川秀機さんはいう。

 しかし、なぜなのか。

 田代というところは、九州でも有数の穀倉地帯、佐賀平野のほんの一角だ。巨大な佐賀鍋島藩、久留米藩、福岡藩に囲まれているが、それらのどの藩にも属さない。かといって天領(幕府の直轄地)というわけでもない。田代は、海を隔てた対馬(対州)藩の領土だった。


対州(対馬)領田代
佐賀県と福岡県の県境に位置する


 この奇妙な“飛び地”は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、対馬領主の宗家が大いに働き、その功が認められて、猫の額のようなこの一角が下賜されたことに由来する。田代売薬の起こりと、田代が対馬領であったこととは無関係ではなさそうだ。

 まず素人ながら思いつくのは、田代=対馬=朝鮮という文化交流のルート。江戸時代の医薬品の代表といえば、いわゆる朝鮮人参だ。これを朝鮮と関係の深い対馬経由で入手し、医薬品に加工したことが田代売薬の始まりではないか、という考えだ。

 江戸時代、将軍の代替わりに朝鮮から「通信使」と呼ばれる使者が来日し、将軍襲職を祝賀するというのが通例になっていた。(→地図を参考)この使者の来日を打診し、迎えるのが対馬藩の役目だった。

 その地理的な条件からも、上記のような役職からも、対馬藩が朝鮮にもっとも近い藩であったことは間違いない。ところが、この説を容易に採れない理由が2つある。

 1つは、朝鮮人参の輸入を、日本が必要としていたかどうかという点。幕府が開いた小石川(文京区)の薬園では、享保4年(1719年)幕府に献上された6株の生きた朝鮮人参を栽培、これを寳暦13年(1763年)には500万株にまで増やしたという(「小石川御薬園草木目録」)。


朝鮮人参。天然のものはほとんどない


 江戸時代の初期から中期にかけて、幕府は薬園をさかんに作った。これらの薬園では、朝鮮人参を始めとする薬草を栽培し、量産を目指した。


江戸初期から中期にかけて造園された


 これに呼応し、また殖産興業の狙いもあり、各藩も薬園を経営した。幕府による薬園開設のピークが終わるころから、各藩の薬園開設が始まる。主なものに、尾張(元禄年間:17世紀末)、南部(1715年)、高松(享保年間:18世紀初頭)、熊本(1756年)、萩(1766年)、薩摩(1779年)、久留米(1786年)、福岡(寛政年間:18世紀末)、秋田(文政年間:19世紀初頭)、広島(文政年間)、島原(1846年)などがある。

 およそ朝鮮人参のような朝鮮舶来の薬草は、朝鮮と日本との気候条件の類似ゆえ、これら全国に経営された薬園で栽培できた。とりわけ各藩がこぞって作った薬園は、藩にとっては有効な外貨獲得手段となったから、栽培される薬草を積極的に他藩にも流通させた。

 結果、田代売薬が起こったと考えられる江戸中期から後期においては、朝鮮人参は輸入に頼るものではなくなっていたと考えられる。というよりも、輸入したものの方が高価だったかもしれない。

 そもそも、対馬領主の宗家が朝鮮に“近い”とはいえ、朝鮮人参を密輸し、田代の農民たちに配って製薬させたとは考えにくい。「田代=対馬=朝鮮」ルート説を採れぬいま一つの理由だ。対馬藩は、たびたびこの田代の領民に向かって、米作に専念するよう「売薬禁止令」を出しているのだ。

 対馬という島は、朝鮮半島の九州の中間に位置する。緯度は高いが、温暖なのは、北太平洋海流(暖流)を分かちた対馬海流に包まれるせいだ。ただし、島の面積は広くとも、山岳地帯が多く、川らしい川がないので農耕には向かない。対馬領主の宗家としては、田代という飛び地は、対馬藩がための穀倉でありさえすればよい。

 ところが、相次ぐ売薬禁止令にも関わらず、町人のみならず農民のなかにも隠れて売薬を営むものが続出し、悪質として処罰された者も出た。こらに対し、かねてからの財政難もあり、田代の売薬業者から運上金(営業税)を上納させることで、対馬藩は1788年、はじめて公式に営業を認めた。

 このような史実から、対馬の所領だったことと、田代売薬の起こりを、朝鮮を由来として直接結びつけるのには無理があるようだ。


■田代に売薬業が栄えたワケ

 交通要所として栄えた地は、日本にいくつかある。思うに、佐賀県と福岡県の県境に位置する田代(鳥栖市)とは、東北における郡山(福島県)のような機能を、九州において果たした町だったのではないか。

 今なお、高速道路や鉄道の経路を見れば瞭然としている。東京から北に伸びる東北本線(東北新幹線)は、郡山に至る。ここから東に進み、いわき市を目指すのが磐越西線、西に進み会塚若松を経て日本海に抜けるのが磐越西線。高速道路でいえば、縦に北上する東北道を、東西に横切るのが磐越道で、その交差するのが郡山だ。

 同様に、九州縦断道と、九州横断道は、鳥栖で交わる。鉄道でいえば、小倉や博多から伸びてくる鹿児島本線が、鳥栖で長崎本線を分かつ。これを江戸時代の表現に直せば、薩摩街道と長崎街道の分岐点が、田代宿の周辺だったということだ。

 この交通ジャンクションを根拠地としていたから、田代の売薬商人たちは、九州一円を効率よく、縦横に動き回ることができた。医薬品という、商品性の高い(利益率が高い)商材が選ばれたのは、つまりは配置商法の営業コスト(つまり回収・配置にかかるコスト)がそれだけ高いからだ、と単純に考えるのが正解ではなかろうか。

 また、いわゆる「お上」の威光が届きづらいというのも、田代売薬を栄えさせた一因かもしれない。米本位制度ともいえる経済システムを採用していた当時の日本では、「石高(こくだか)」という体積単位は単に米作の収穫高を示すだけでなく、その藩の経済規模そのものを指し示すに等しかった。余談になるが、幕末、いわゆる西南雄藩が力を持つのは、商品作物の栽培や新しい産業の振興によって、旧来の「石高」を超える実質石高(経済力)を獲得したからに他ならない。

 いずれにせよ、どの藩も、米の収穫高をどう増やすかということに腐心し続けた。対馬藩の「売薬禁止令」も、その現れの一つだった。ところが対馬藩にとって不幸だったことに、そして田代の売薬商人たちにとっては幸いだったことに、対馬本領から田代に派遣される代官は、わずか数名に過ぎなかった(一説によると代官と補佐官の2名)。

 つまり田代の代官所には、軍事力・警察力はなかったのだ。したたかな田代の民は、この代官たちを接待、贈賄で骨抜きにし、その目を盗んで製薬、売薬に励んだという。海を隔てた島に領主と警察機関があるという、幕藩体制化においてはきわめて例外的な田代の統治環境が、売薬業という特殊産業を可能にし、ますます盛んにしたともいえるだろう。


■衰退する配置売薬

 明治3年(1870年)、新政府は「売薬取締規則」を公布し、誇大広告や詐欺まがいの偽薬を取り締まり始める。これを受けて佐賀県が明治8年(1875年)に田代売薬業者を改めたところ、その数136業者にも上ったという。

 しかし、明治初年の当時が、配置売薬という特異な商法の最盛期だったといえる。明治政府は、明治10年(1877年)に「売薬規則」を出して営業税の支払いを命じ、明治15年(1882年)には「売薬印紙税規則」で、定価の10%の印紙税の支払いを命じた。西欧医学や薬学を導入すべく、漢方を中心とした既存の医薬業界を苦しめるためだった。

 田代の商人たちは、屈して売薬業を断念する者も多かったが、個人事業主だった何人かの商人たちが結束して法人化を図り、これらの弾圧に耐えた。この動きの中で、配置商法を営む業者は次第に減り、本舗商法(店舗を構える売薬商法)を採る業者も増えた。製薬も、従来の家内制手工業から、労働力を集約する工場制へとシフトした。

 この中からは、大いに成長した久光製薬(当時は、久光兄弟合名会社)も出た。現在も、佐賀県には配置売薬業者が少なくないが、当時ほどの勢いはない。規制緩和で、24時間営業のドラッグストアが増えたり、コンビニエンスストアに医薬品が置けるようになれば、ますます配置売薬の意義は薄れていくだろう。

 中冨記念くすり博物館の山川秀機館長は、一葉の写真を示しながら「配置は、滅びゆく商法かもしれません」と寂しそうに笑った。その写真には、田代に生まれ育った山川館長がその少年時代に見たであろう、田代売薬商人の姿があった。(了)


大正時代の配置売薬商人の姿

at: 2002/04/21(Sun)

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やくも  2002/05/21(Tue)/23:01:27   No.346
更新への期待を込めて書き込み。
アツリョクではないですよ。決して。

蛇足  [E-Mail] [URL]  2002/05/22(Wed)/00:30:54   No.347
明日には必ず…必ず…

竜虎  2002/05/22(Wed)/11:46:04   No.348
期待あげ(笑)


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